千早城(ちはやじょう)は、日本100名城(55番)に選定されています。
スタンプラリーのスタンプは、
「金剛山 山の豆腐」 に設置しています。
営業日にご注意下さい。(
営業案内)
南北朝時代、楠木正成(くすのき まさしげ)によって築かれた千早城は、
天然の要塞とも言える金剛山の支脈にあって、非常に強固な山城でした。
楠木七城の一つとして知られています。
正成が奇策を用いた攻城戦の舞台として、特に有名です。
千早城の戦いは、西暦1332年(元弘二年、正慶元年)にあった戦い。
楠木正成がわずかな手勢で鎌倉幕府の大軍を相手に籠城戦を戦い抜き、落城することなく持ちこたえた。
1,000名の手勢で100万の大軍を相手にしたと『太平記』には残されている。
正成は様々な秘策を用いて山城での籠城を成功させた。
城から、矢や石つぶて、大木の丸太や糞尿も用いて、攻め上がる敵兵を退けた。
わら人形に甲冑を着せて兵に見せかけ、夜明けに鬨の声をあげて敵を呼び寄せておいて本物の兵は場内へ引き、
敵兵がわら人形の兵に殺到したところを見計らって大量の大石を投げ落とした。
幕府軍が向かいの山から100尺(300m!)の橋を掛けて攻め入ろうとしたときには、
水鉄砲に油を詰めて橋に注ぎ掛け、火をかけて敵兵もろとも橋を落とした。
谷底に敵兵の屍が積み重なった。
等々。
幕府軍が千早城に釘付けになっている間に後醍醐天皇の討幕の綸旨に呼応した武将が各地で挙兵し、
千早城を攻めていた武将が次々に帰国、千早城は籠城戦に成功した。
まさに難攻不落の城であった。
関東で新田義貞が鎌倉へ攻め込み、鎌倉幕府が滅亡するのは、
千早城の戦いが終了した12日後のことだった。
南北朝時代の武将。
千早赤阪村、河内周辺で活躍しました。
後醍醐天皇に味方して挙兵し、鎌倉幕府軍相手に奮戦、倒幕へと繋がったとされています。
後に、足利尊氏と対峙する後醍醐天皇についた楠木正成は、
湊川(神戸市)にて足利軍に敗れ、自害しました。
「非理法権天」は、菊水の旗印と共に楠木正成が掲げたとされる。
無理「非」は道理「理」に勝たず、
道理は法式「法」に勝たず、
法式は権威「権」に勝たず、
権威は天道「天」に勝たずという意味。
それぞれ、非道、道義、法令、権威、天命、を指す。
太平洋戦争時、正成の旗印から名づけられた「菊水作戦」において、
沖縄に向っていた戦艦大和には「非理法権天」と記された"のぼり"があったという。
海上自衛隊には”ちはや”という艦艇が存在し、
その名称は千早城に由来する。
〇潜水艦救難艦 ちはや
(ASR-403 / 三井造船 玉野事業所 / 1998年10月8日 進水 / 2000年3月17日 就役)
千早城に由来する艦名を持つ艦艇は過去にも存在し、軍籍(及び自衛隊籍)の艦艇としては4隻目。
〇旧帝国海軍の輸送船 千早号
(1875年5月 進水 / スコットランド製の木造帆船)
〇旧帝国海軍の通報艦 千早
(1900年5月26日 進水 / 横須賀海軍工廠 / 日露戦争にて日本海海戦等に参加)
〇自衛隊の潜水艦救難艦 ちはや
(ASR-401 / 住友重機械工業 浦賀造船所 / 1960年10月4日 進水 / 1989年2月28日 除籍)
建物等は残っておらず、 本丸跡には千早神社が建立されています。
千早城跡までの道のりはちょっとした登山の様相。
最寄りのバス停(金剛山登山口)からは、徒歩約20~30分程度。
城跡まで登ると、難攻不落の要塞であった事がよく理解できると思います。